(2024年5月5日の週報より) |
コリントの信徒への手紙一 11章19~27節 「生きること」と「場所をとること」には、密接な関係にあると思われます。私たちは、この世界のどこかに存在し、身を置いています。私がいる分だけ、その場所は狭くなります。私たちはこの世界を共有していて、「自分だけの場所」というのは、ほとんどありません。私が場所をとれば、その分、誰かの場所が減って、狭くなります。それは、その誰かの「痛み」になるでしょう。だからこそ、不当に誰かの場所を奪うことや、一方的に相手に痛みを強いるようなことになってはいけません。しかし同時に、痛みを負いながらも〈それでもそこはあなたの生きる場所だ〉と語りかけてくれる誰かと出会う時にこそ、〈自分は生きていて良いのだ〉と心の底から安心することができるのだろうとも、思うのです。 |
応答讃美歌:新生16番「み栄えあれ 愛の神」 |
(2024年4月28日の週報より) |
コリントの信徒への手紙一 9章19~23節 8章において、偶像に供えられた肉を食べるか食べないかという問題を論じたとき、パウロはそれを信仰者の「自由」の問題として語りました。そしてその「自由」行使の尺度として「兄弟をつまずかせることのないように」という思い(他者に寄り添う思い)を私たちに伝えています。 |
応答讃美歌:新生388番「主よ わが心に」 |
(2024年4月21日の週報より) |
コリントの信徒への手紙一 8章1~13節 コリントの町は、ローマ政府による移民政策と商業の発展によって様々な国籍を持つ人たちが住むようになり、それに伴って様々な宗教が入り込んできました。多神教が多くを占める中にあって、唯一神を唱えるキリスト教はある意味独特な存在であり、教会は異教的な文化や習慣の中で、独自の信仰を守るために闘っていたと言えるでしょう。その一つとして今日の箇所でパウロが取り上げているのが、「食物」の問題です。偶像に供えられた肉を食べることの是非が具体的内容です。 |
応答讃美歌:新生533番「一羽のすずめの」 |
(2024年4月14日の週報より) |
コリントの信徒への手紙一3章5~9節 「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3節)と、パウロはコリント教会に問いかけます。「ねたみや争いの言葉」は、当時のコリントの町に響いていた言葉でした。教会の姿や教会から聞こえてくる言葉が、町の言葉・時代の言葉と同じになってしまっていいのかと、パウロは問いかけるのです。 |
応答讃美歌:新生342番「教会 世にあり」 |
(2024年4月7日の週報より) |
コリントの信徒への手紙一 1章10~17節 コリントという町は、紀元前146年にローマの侵略により荒廃します。しかしその後、ローマの支配からの解放により町が再建されて、経済的・政治的に驚くべき成長を果たします。いわゆる「高度経済成長」を体験した町の人々は、右肩上がりに成長していくことを是とする考えを持っていました。その町に生きる「コリントの信徒たち」もまた、そのような空気に影響を受けていたのです。 |
応答讃美歌:新生339番「教会の基」 |
(2024年3月31日の週報より) |
「終わりのない希望の話」 ヨハネによる福音書20章19~20節 イースターを祝うことは、イエスの復活を覚えることを意味します。聖書は、イエスの復活はみんなの希望であることを示します。イエスの復活は、イエス一人が「死」に打ち勝ったという英雄譚ではなく、私たちみんなに「死の向こう側」を指し示す出来事だからです。 イエスの「十字架の死」は最悪の形の死でした。それはローマの人々にとっては「見せしめの死」を意味し、ユダヤ人たちにとっては「神に呪われた者の死」を意味していたのです。まさしく絶望の象徴と言える十字架の死を、神は「新しい命への扉」に作り変えます。そしてイエスの復活は、十字架の死の向こう側にある命の希望を語り始めるのです。 ヨハネ福音書20章は、弟子たちとイエスの再会の場面を語ります。「週の初めの日の夕方」(19節)、弟子たちは扉に鍵をかけて閉じこもっていました。イエスを裏切って逃げた罪悪感や、閉じこもることしかできない自らの惨めさ、自分たちに向けられる世間の目に対する恐怖などで、弟子たちは「お先真っ暗」な状態でした。その弟子たちの傍らにイエスは立ち、「あなたがたに平和があるように」(19節)と語りかけます。その言葉には「大丈夫だ」と弟子たちを励ます暖かい気持ちが込められています。この言葉を受け取った弟子たちは、真っ暗な場所からもう一度立ちあがり、絶望の向こう側へと歩みを進めます。こうして、キリスト教は始まるのです。 イエスの復活の物語は、私たちに「あなたの命を絶望のままでは終わらせない」という神の思いを語ります。その思いを自らの希望として受けて生きること、それが「イースターを祝う」ということなのです。 (牧師 原田 賢) |
応答讃美歌:新生244番「救い主にぞ われは仕えん」 |
(2024年3月24日の週報より) |
いのちの終わりは、いのちの始め ヨハネによる福音書 19章17~30節 聖書には「栄光」という言葉が300回以上使われています。讃美歌の中でも頻繁に登場します。「栄光」という言葉から連想されるのは「輝き」「誉れ」「栄誉」「賞賛」といった人々が憧れるような、あるいは人々に幸いを与えてくれるようなものです。弟子たちもそのように理解し、「栄光をお受けになるとき、一人を右に、もう一人を左に座らせてください」と頼み込んでいます(マルコ10章)。 |
応答讃美歌:新生讃美歌229番「十字架のもとは」 |
(2024年3月17日の週報より) |
真理は“私の声”を自由にする ヨハネによる福音書18章33~40節 いよいよ十字架の場面へと入っていきます。「人々」(18:28)は、イエスをローマ総督ピラトに引き渡し、十字架に架けるようにと迫ります。この時の人々の主張内容は、多くの点で矛盾しています。ピラトは繰り返し「イエスに罪は見いだせない」と主張します。しかし人々は、〈自らの手を汚さずに、ローマ人の手でイエスを十字架に架ける〉という目的のために、矛盾もお構いなしに声を大きくし、自らの主張を押し通します。その大きな声が、権力者ピラトの声さえもかき消して、イエスを十字架へと追いやるのです。 |
応答讃美歌:新生讃美歌437番「歌いつつ歩まん」 |
(2024年3月10日の週報より) |
悩みあるあなたに、平和を! ヨハネによる福音書16章16~33節 主イエスの弟子たちへの訣別説教の最後の部分です。この日の夜に捕縛され大祭司のもとに連行されることになります。主の最後の説教に耳を傾けましょう。 |
応答讃美歌:新生讃美歌515番「静けき河の岸辺を」 |