(2025年11月23日の週報より)  
 

愛の補給所‐“生きて欲しい”を取り戻すために‐

イザヤ書6章1~7節

2025年度の活動方針のなかで、「変わらない礼拝の本質を心に留めて」という言葉を掲げています。「礼拝の本質」とは、「神さまに心を向けること」です。礼拝の形式的な部分は様々に変わっていきますが、「神さまに心を向ける」という本質は変わりません。神さまに心を向けるとき、私たちや世界のことに深く心を注いでくださっている神さまの姿が見えてきます。その神さまの姿から、私たちは生きる力を得て来たのです。

   人は誰しも「自分が愛されている」という実感を必要としています。そして、その実感は、「一度造られれば一生安泰」といった盤石なものではなく、揺らぎやすく、傷つきやすいものです。日々の生活の些細な出来事で傷ついて、疲れてしまうことは、誰にでもあります。自分の存在意義が分からなくなるような悲しい日を過ごすことが、きっと誰にでもあるのです。だから、私たちは誰しも愛を補給する場所を必要としているのではないでしょうか。

   イザヤ書6章は、預言者イザヤが神さまの幻を見る場面が描かれています。神の使いである「セラフィム」が神さまを賛美して礼拝しているところをイザヤは見ます。その圧倒的に美しいものを前に、「わたしは汚れた唇の者」(5節)と言って、イザヤは絶望します。理由ははっきりしませんが、「唇」が彼にとっての良くない部分に感じたのでしょう。その唇に、セラフィムが炭火を押し当てて「赦し」を宣言します(7節)。イザヤの絶望を癒すように、崩れかかった「愛されている」という実感をイザヤに取り戻させるように、イザヤの唇に赦しが焼き付けられます。その赦しを受け取って、イザヤは立ちあがるのです。

   絶望したイザヤを立ちあがらせた神さまが、今、私たちと共におられると聖書は証言します。あなたに赦しを宣言し、「生きて欲しい」と願われる神の思いを受け取って、またこの日々を生きていきましょう。  (牧師 原田 賢)

 応答讃美歌:新生461「迷い悩みも」 


  (2025年11月16日の週報より)   

主による建て直し

アモス書9章11~15節

先週は幼児祝福式でしたが、子育てには愛が必要です。愛することと甘やかすことは違います。100%受容する優しさとともに、時には厳しさも必要です。以前、テレビで少子化問題が報道されていました。その中で[きょうだい喧嘩によって子どもたちは駆け引きや手加減を無意識のうちに取得する]と語られていました。痛みを伴う関わりや交わりの中でいろんなことを学び、それが成長へとつながっていきます。それは、神との関係においても言えることです。

   アモス書には神の厳しさが語られ、イスラエルの罪に対する神のさばきが色濃く描かれています。さばきの言葉に身をさらすことはとても辛いものがあり、痛みが伴います。しかしそれは、イスラエルを愛するがゆえのものであることを私たちは認識する必要があります。神はイスラエルの家が「生きる」ことを誰よりも望んでおられるのです。そしてそれは、この9章で「回復の約束」という形で表れます。

   「ダビデの仮庵(家)」はイスラエルにとって理想の国を意味します。そこには神の信任によって立てられた王がおり、民は王と共に神を礼拝し、神の御旨に従おうと努める信仰者の群れが存在します。しかし、当時の現状はその「家」が倒れた状態でした。その民に向かって主なる神は「その破れを修復し、復興し、建て直す」と約束してくださったのです。

   私たちは、この神の言葉がクリスマスの出来事を通して、また十字架と復活を通して成就したことを知っています。しかし同時に、「破れ」や「廃墟(崩れ)」を抱えている現代の私たちや教会に対する希望のメッセージとして読み取りたいと思います。個人的にも教会としても「修復」し、「復興」しなければならないことがたくさんあります。私たちが「生きる」ための「建て直し」へと、神は私たちを招いておられるのです。 (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生570「たとえばわたしが」  


  (2025年11月9日の週報より)  
 

将来と希望を与える神の計画

エレミヤ書29章10~14節

子どもたちが好きなテレビアニメに「それいけ!アンパンマン」があります。そのテーマソングで原作者のやなせたかしさんはこう書き出しています。

 [なんのために 生まれて なにをして 生きるのか
 こたえられないなんて そんなのは いやだ]

  なんのために生まれて、なにをして生きるのか、この問題に聖書は「祝福を受け継ぐためである」(Ⅰペトロ3:9)と答えます。聖書には神の祝福の言葉がたくさん書かれています。その一つがエレミヤ書29章11節です。その内容は神の「平和の計画」であり、「将来と希望を与えるもの」だと、神は言われます。

  しかし、この言葉は、バビロン捕囚という状況下で語られたものです。わたしたちは、「平和・将来・希望がある」というとき、生活が安定し、問題がなく、家庭円満で健やかなイメージを持ちます。逆に、それらの一つでも欠けてしまったら、将来や希望は吹き飛んでしまうと思いがちです。しかし、聖書はそうは語りません。私たちの思いと神の思いとは違ったものであり、私たちの思いを超えたところで進められていく神の計画・神の時があることを語ります。

  ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎さんは、たとえ苦難の人生であっても、その苦難が自分を成長へと至らせるものであるとすれば、それはグレイス・恩寵と言えるのではないかと語っています。

  「70年」というバビロンでの日々は決して短いとは言えません。しかし、ここには捕囚に終わりがあることが示されています。また、神は「そこに家を建てて住み…」と、しっかりと地に足をつけて生きていくように、そして神を見上げて生きていくようにと語られます。信仰生活にしても、育児にしても、私たちの思いを超えた神の思い、神の祝福、神の計画があることを心に留めて、歩んでいきたいものです。 (牧師 末松隆夫)

 応答讃美歌:新生301「いかなる恵みぞ」   


 (2025年11月2日の週報より)    

イスラエルの罪。対岸の火事?

アモス書2章6~16節

アモスは、南王国ユダで牧羊業に携わり果樹園も営んでいた人で、当時としては裕福な生活だったようです。そのアモスが北王国イスラエルに神の言葉(さばき)を伝える預言者となったのは、アモス自身の思いではなく、神の招き・神の迫りに対する応答によるものです。私たちが毎週ささげている礼拝も、神の恵みを受ける時であるとともに、神の招きと迫りを受ける時でもあります。神の迫りを受けて悔い改め、新たな決断をし、新たな一歩を踏み出す、それが礼拝です。

   アモス書はダマスコ(アラム)、ガザ(ペリシテ)、ティルス(フェニキヤ)などイスラエルと緊張関係にあった国々に対する神のさばきの言葉から始まります。「わたしは決して赦さない」との神の言葉を、イスラエルの人々は心地よく聞いていたことでしょう。[真の神を信じていない連中は神に裁かれて当然だ]という思いで、神の側に自分を置いて聞いていたのかもしれません。

   しかし、「わたしは決して赦さない」という神の言葉は、北イスラエルにも語られ、他の国々以上に長く語られます。内容は、司法倫理・道徳倫理・性的倫理の堕落であり、信仰の堕落です。8節の「神殿」と訳されている語は、直訳すると「彼らの神の家」です。偶像礼拝が行われていた神殿を神は「わたしの家」とは呼ばれません。

   イスラエルの罪に関して「正しい者を金で売った」ことがあげられています。この個所と直接の関係はありませんが、イスカリオテのユダの事象が浮かんで来ます。また、「預言者を…ナジル人を起こした」(11節)の700年後に、預言者やナジル人を超えたお方が神によって起こされたことへとつながっていきます。「そうではないか」(11節)とのイスラエルへの神の迫りは、私たちへの迫りでもあります。その迫り(招き)に私たちがどのような決断をするかを神は見ておられるのです。  (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生478「ともに在せ わが主よ」   


 (2025年10月26日の週報より)   
 

地べたで“ごろん”、明け渡そう

ヨハネによる福音書15章5、16~17節

みなさん、はじめまして!巻頭言のスペースをお借りして自己紹介をさせてください。僕とキリスト教会との出会いは幼稚園です。我が家はクリスチャンファミリーではありません。母が家から一番近い幼稚園を探していて、たまたま見つけたのが久留米バプテスト教会の附設幼稚園、“めぐみのその幼稚園”でした。年中/年長のたった二年間でしたけど、楽しかった!

   どれくらい楽しかったかと言いますと、20歳の僕の証言が残っております。当時僕は小学校教師を目指し教育大学で学んでいました。ある日美術の授業で課題が出ます。「人生を振り返って、今の自分を形成していると思う出来事や出会いを自由に表現しなさい」というもの。僕は絵が好きでしたから、大きな画用紙に20年生きた中での思い出を八つほどに絞って“人生マップ”みたいな絵を描きました。その一つにめぐみのその幼稚園のことを入れているのです。

   友だちのかよちゃんと手をつないで教会の門をくぐっている自分のイラストを描き、こんなコメントを添えていました。「幼稚園は教会でした。先生から神さまのお話を聞いて、クリスマスにはキャンドルに火を灯してみんなで劇をして、僕の人生の絶頂とも言える二年間でした」。笑っちゃうでしょう?「人生の絶頂」と書いているのです。友人たちからは「5歳6歳で絶頂期を迎えてしまっているなら、お前もう相当やばいぞ」と心配されました。卒園してからはまったく教会には行かなくなり、教会とは無縁の人生を歩んでいる20歳の僕でしたけど、偽わらざる素直な気持ちでした。

   教育大学を卒業して、子どもの頃からの夢叶って小学校の先生になって、でもそれはたった8年で挫折して…。どん底、人生これで終わりと絶望したただ中で、僕は不思議にも幼稚園のことを思い出して教会を再訪したのです。25歳の夏、20年ぶりでした。5歳、6歳の僕の心に幼稚園の先生が神さまの種を蒔いてくださっていたことが、僕のいのちの救いになりました。この春日原教会にも恵星幼稚園があります。昨日と今朝と、僕は“ありがとう”の気持ちで立たせていただいています。    (久留米荒木教会牧師 溝上哲朗)

応答讃美歌:新生510「主の言葉の」   


 (2025年10月19日の週報より)  
 

永遠の命とは

ヨハネによる福音書3章16~21節

「永遠の命」とは何でしょうか。多くの人は「死んだ後も続く命」と考えるかもしれません。しかし聖書が語る「永遠の命」は、単なる寿命の延長ではなく、神とのつながりの中で生きる命を指しています。

   ヨハネによる福音書17章3節には、「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と書かれています。ここでいう「知る」とは、知識として理解することではなく、人格的に深く結ばれることを意味します。つまり、永遠の命とは、神とイエス・キリストとの交わりに生きることなのです。

   私たちは日々の生活の中で、不安や孤独を感じることがあります。先の見えない状況や、思いがけない出来事に心が揺さぶられることもあります。しかし永遠の命を与えてくださる主は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。その約束は、私たちが地上の生涯を終えた後も続き、決して途切れることはありません。永遠の命は、未来にだけあるものではなく、すでに今ここに始まっている命です。イエスを信じる者は、すでに神の愛のうちに置かれ、御国の希望をいただいて歩んでいます。日々の生活の中で祈り、御言葉に耳を傾け、兄弟姉妹と交わりを持つとき、永遠の命の豊かさを少しずつ味わうことができます。

   この永遠の命は、人の努力によるのではなく、神の恵みにより、キリストを信じる信仰によって与えられます。その恵みはすべての人に開かれ、過去がどうであっても神に立ち返る時に新しくされます。だから私たちは恐れずに主に信頼し、永遠の命に生きましょう。この希望が私たちの支えです。 (天野正道神学生)

応答讃美歌:新生437「歌いつつ歩まん」  


 (2025年10月12日の週報より) 
 

神さま、リプライ待ち。

ヨナ書4章1~4節

神は、ヨナをニネベに派遣します。一度は逃げ出したヨナでしたが、今度は逃げませんでした。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(3章4節)というヨナの言葉を聞いて、ニネベの人々は直ちに態度を改めます。その様子を見た神はニネベを滅ぼすのをやめますが、そのことでヨナは怒りを抑えられなくなります。そのヨナに、神は問いかけます。「お前は怒るが、それは正しいことか」(4章4節)と。

   怒るヨナに、神は「とうごまの木」を与えます。大きな葉っぱが日陰を作り、ヨナを癒します。ヨナはとうごまの木の存在を心から喜びました。しかし、その木はすぐに枯れてしまいました。ヨナは悲しみ、嘆きます。そこで、再び神は問いかけます。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」(4章9節)と。

   問いかけは、返事を求めます。まるでキャッチボールをするように、互いに言葉を交わすやりとりを作り出します。神は、怒るヨナに問いかけます。ヨナからの返事を期待して、ヨナと言葉を交わし合いたくて、神は問いかけるのです。

   ヨナ書は、あらゆる命を惜しむ神の言葉で終わります。しかし、神とヨナの対話は終わっていないのではないか、と思うのです。ヨナが最後の神の言葉をどのように受け止めたのか、ヨナ書は語りません。ヨナに代わって、私たちが対話を続けることを、神は期待しているのではないでしょうか。

   ヨナにとって、「ニネベ」は赦し難く、怒りの湧く存在でした。私たちにとって、「ニネベ」のような存在はないでしょうか。ヨナにとって、「とうごまの木」は失い難いほど大切な存在でした。私たちにとって、「とうごまの木」のような存在はないでしょうか。〈あなたがとうごまの木を惜しむように、私もニネベを惜しむ〉と語り、返事(リプライ)を待っておられる神に、あなたなら、どのように応えるでしょう。(牧師 原田 賢)

応答讃美歌:新生445「心静め語れ主と」  


(2025年10月5日の週報より) 

神の勝利が命を救う

ヨナ書1章1~3節

ヨナ書は、「預言者が神から逃げ出す」という独特な場面を描きます。これは、単なる憶病や怠慢ではなく、ヨナの正義を懸けた神との戦いでした。預言者は、「神の言葉を人々に告げる」という大切な役割を担っていました。ヨナは、紀元前8世紀頃、南北に分かれたイスラエル王国の北側で活動した預言者でした。その頃、アッシリアという国が勢力を伸ばし始めていました。アッシリアは暴力的な征服をすることで有名な国でした。神がヨナを遣わそうとした「ニネベ」は、このアッシリアの首都だったのです。

  ヨナに託された神の言葉は、ニネベの滅びを告げるものでした。それは、アッシリアの脅威にさらされている北イスラエルにとっては朗報です。しかし、ヨナは滅びの言葉の奥に「滅びることがないように考え直せ」という愛の呼びかけが潜んでいることを見抜きます。だからヨナは、アッシリアに向けられた神の愛に反抗して、逃げ出すのでした。「悪は滅びるべきであり、更生のチャンスなど与えるべきではない」というヨナの正義が、ここに見えてきます。

  ヨナは神から逃れるために「タルシシュ」へと向かいます。そこは、ニネベと真逆の方向にある町です。タルシシュへの渡航は、神の愛と真逆の方向へ動くヨナの正義を象徴的に描いています。タルシシュへ向かう途中、ヨナを乗せた船は嵐に遭います。そこで、ヨナは「自分を海に投げ込むように」と同乗した人々に言います。行き過ぎた正義は、命の排除を要求します。アッシリアの滅びを望んだヨナは、いつの間にかに自らの命を「滅び」へ投げ込むことになっていたのです。しかし、そのヨナを神は見放さず、ヨナの命を滅びから救い出すのでした。こうして、ヨナの正義と神の愛の衝突は、神の勝利に終わります。

  ヨナ書は、命を惜しむ神を物語ります。神は、「悪」であるアッシリアの滅びも、自分から逃げ出すヨナの滅びも望まれません。正義を掲げて戦争を繰り返すこの世界に、ヨナ書は何を問いかけているでしょうか。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生550「ひとたびは死にし身も」 


(2025年9月28日の週報より)

人生における究極の選択

ヨシュア記241~15節

ヨシュア記の23章と24章には、ヨシュアの告別の言葉(遺言)が記されています。ヨシュアは民に最後の言葉を語る際、民の代表を呼び寄せました。これはヨシュアが長老たちと一緒に(共に)神の御前に立ったことを意味しています。私たちは、求道者の救いや教会員の成長を願います。しかしともすると、そこに自分は入っていなく、人々が神の御前に立つことばかりに心が向いてしまうことがあります。そうではなく、すべての人が共に主の御前に進み出ることが信仰共同体としての教会のあるべき姿であることを、今一度心に留めましょう。

ヨシュアは、神の言葉を受け、アブラハムのことから約束の地に至ったことまでを振り返り、それは人間の力によってなしえたものではなく、今あるは神の恵みであることを語ります。繰り返し語られている「わたし」と言われているお方に心を向け、その恵みの中に生かされて「今」があることを心に刻むとき、私たちの生きる方向、選び取る道が見えてきます。

ヨシュアは、先祖から今に至るまで民が遭遇してきた様々な神々を示しながら、「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」と語ります。この「選び」は、その人の人生をかけての大きな選びであり、人生における究極の選択です。その「選び」は、それぞれがなすべきものです。信仰は神の愛に対する「私」の自発的な応答です。まさに、自覚的信仰が求められているのです。

自分に仕えてくれるものを選ぶのは難しいことではありません。しかし、自分が仕えるものを選ぶとなると、そこには大きな決断が必要となります。私たちはだれに仕えようとしているのでしょうか。人間がつくり出した神々でしょうか。人間をつくったお方でしょうか。それとも自分自身でしょうか。

ヨシュアは民に断言します。「わたしとわたしの家は主に仕えます」と。このヨシュアの告白を、私たちも「今日」という毎日の生活で告白していく一人ひとりであり、教会でありたいと節に願います。    (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生621「われに従えとイエスは招く)