(2025年4月27日の週報より) |
先立ち共におられるイエス マタイによる福音書28章16~20節 約束どおり、弟子たちは復活されたイエスとガリラヤで会います。その時彼らは「ひれ伏した」とあります。これは「礼拝した」ということです。その弟子たちについて聖書は「疑う者もいた」と書き添えています。これが婦人から復活の話を聞いたときであったのなら疑う者がいても不思議なことではありません。ヨハネでは弟子仲間の証言を信じることができなかったトマスのことが紹介されています。当時、証人としての資格がなかった女性の証言であれば尚更のことです。しかし、彼らは復活されたイエスと対面し、礼拝を献げている状況下で尚信じることができず疑う者がいたというのですから驚きです。 |
応答讃美歌:新生310番「主イエスよ われと」 |
(2025年4月20日の週報より) |
「大きな喜び~イエスとの関係の回復~」 マタイによる福音書28章1~10節 イースターという日は、イエスが復活された日であり、それはとても大きな喜びの出来事でした。しかし、その前に、大きな悲しみがありました。それはイエスが十字架につけられて殺されてしまったということです。 |
応答讃美歌:新生407番「主と共に」 |
(2025年4月13日の週報より) |
しかし、イエスはそこにいる マタイによる福音書27章39~43節 マタイ27章は十字架の場面を描きます。十字架に架けられたイエスに、人々からの侮辱の言葉が届きます。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう』」(27:39~43)。目の前で血を流し、磔にされている人に対し、なおもこうした侮辱の言葉をぶつけるという、非常に残酷な場面が描かれています。 |
応答讃美歌:新生205番「まぶねの中に」 |
(2025年4月6日の週報より) |
祈り‐苦しみの中で希望を見出すために‐ マタイによる福音書26章45~47節 ジョン・キーツというイギリスの詩人の言葉に「ネガティブ・ケイパビリティ」というものがあります。これは、「不確実な状況に耐える力」を意味します。あらゆる技術が発展し、便利になった現代の中で、改めてこの言葉が注目されています。焦って答えを出さずに問いの中に留まり、考え続ける力を持つ重要性が、医療や介護、教育など多くの分野で語られ始めています。 |
応答讃美歌:新生435番「山辺に向かいてわれ」 |
(2025年3月30日の週報より) |
“終わり”を思い、“今”を生きる マタイによる福音書25章31~40節 2024年度の最後の礼拝です。この1年間も様々なことがありました。嬉しいことも、反省させられることもありました。しかし、何はともあれ、2024年度は終わります。どのような時も、過ぎ去ってしまうと取り戻すことはできません。そのような
“終わり”を思うとき、取り戻すことのできない“今”がどれだけ大切であるかを知らされ、この“今”をどう生きるのかと問われるのです。 |
応答讃美歌:新生550番「ひとたびは死にし身も」 |
(2025年3月23日の週報より) |
幸せの在り処 マタイによる福音書23章25~26節 マタイ23章は、イエスが律法学者やファリサイ派の人たちを厳しく批判する箇所です。彼らは宗教的な指導者であり、人々に聖書の言葉を語り聞かせ、人々の人生を正しく導くという大切な役割を負っていました。彼らは“正しい言葉”を人々に語ります。しかし、その彼らの行いは「すべて人に見せるためである」(5節)と、イエスは言います。表面上の“正しさ”ではなく、内面にある動機や思いを問題にしているのです。自らの正しさを誇示し、“自分を高めるため”に振舞おうとする指導者たちの姿を、イエスは批判されたのでした。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ」(25節)。 |
応答讃美歌:新生392番「めぐみのうつわ」 |
(2025年3月16日の週報より) |
ここはあなたの祈りの家 マタイによる福音書21章12~14節 この箇所は「イエスの宮清め」と呼ばれる箇所で、4つの福音書すべてに記載されている出来事です。神殿の境内には、「両替人」や「鳩を売る者」がいました。当時、一般に流通していたローマ貨幣を神殿への献金に用いることができなかったので、献金のために貨幣を両替する必要がありました。「鳩」も献げ物として必要なものと考えられていました。そのため「両替人」や「鳩を売る者」は、表向きは参拝者のためのサービスであったと見ることもできます。しかしその裏の実態は、宗教指導者たちの私腹を肥やすことに繋がっていました。一部の人を豊かにするために搾取のような行いをしていた神殿を、イエスは嘆きます。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」(13節)。 |
応答讃美歌:新生461番「迷い悩みも」 |
(2025年3月9日の週報より) |
能力主義を打ち破る神の愛” マタイによる福音書20章1~16節 本日の「ぶどう園の労働者のたとえ」は、13章のたとえ同様に「天の国」(神とのつながり)のたとえとして語られており、「主人」は神であり、「労働者」は私たちのことだと受け止めることができます。そして「ぶどうの収穫」は、〈人生〉とも、主人のための働きであることから〈伝道や奉仕をはじめとした教会生活〉とも理解することができるでしょう。 |
応答讃美歌:新生431番「いつくしみ深き」 |
(2025年3月2日の週報より) |
赦しへ向かう“第一歩” マタイによる福音書18章21~35節 ある王と家来たちの譬え話が語られます。ある家来は「一万タラントン」の借金をしています。それは一生かかっても返済できないような途方もない金額でした。王は返済できない家来を憐れに思い、家来の借金を帳消しにします。ところがその直後に、赦された家来は自分に百デナリの借金をしている仲間を見つけ、「借金を返せ」と言って首を締めあげてしまいます。そのことが王の耳に入り、その家来は牢に繋がれることになり、この話は終わります。 |
応答讃美歌:新生300番「罪ゆるされし この身をば」 |
(2025年2月23日の週報より) |
あなたはわたしをだれと言うか マタイによる福音書16章13~20節 イエスが弟子たちに信仰の根幹に関わる問いかけをされた場所は、ローマ皇帝の名が付された「フィリポ・カイサリア」でした。この町の神殿には皇帝の像が置かれ、バアルやパンといった偶像崇拝も盛んになされていたところです。その町でイエスは「人々は、人の子(=イエス)を何者だと言っているか」と弟子に問われたのです。これは現代の私たちに何を語っているのでしょうか。 弟子たちは人々の声を伝えます。第三者の声を伝えるのは簡単です。そこには自分の責任は伴いません。誰が言ったかということも問われません。時に噂やSNSでの不確かな情報を信憑性のあるかのように思い込み、その結果、他者を傷つけてしまうこともあります。弟子たちが伝えたイエスに対する町の人々の評価も正しいものではありませんでした。 続けてイエスは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われます。この問いこそが重要であり、この問いによって自分自身と向き合わされます。一人ひとりが自分の思い(信仰)をイエスの前にさらけ出すことが求められる呼びかけです。 「あなたはメシア(=キリスト、救い主)、生ける神の子です」との答えは信仰告白そのものです。信仰告白は神の導きによって生まれ、その内容の理解は、時間をかけて自己の中で深められていくものであることを、ペトロの歩みから教えられます。 イエスが語られた「岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てる」とは、〈信仰告白〉〈ペトロを初めとした信仰者〉〈ペトロ自身〉など様々な解釈が可能ですが、何よりもイエスご自身が「岩」であり、その「岩」の上に教会(呼び集められた群れ)がイエスによって建てられることをしっかりと認識することが大切です。そこが抜けてしまうと、キリストの教会ではなくなります。私たち一人ひとりが、イエスをだれと言うか、だれの上に教会を建てるか、とても重要なことです。 (牧師 末松隆夫) |
応答讃美歌:新生353番「われは愛す 主の教会を」 |