(2025年7月27日の週報より)    

呪いと祝福

民数記23章1~30節

21世紀の現代でも「丑の刻参りセット」(藁人形・五寸釘・ハンマー等)がインターネットで販売されています。[誰かに呪われているかもしれない]と考えると、気持ちいいものではありません。日頃「呪い」とは無縁な生活をしていても、災いが続くと、[供養が足りないから呪われている]などの声を無視することができずに財産をだまし取られてしまうという被害もよく聞くことです。「呪い」という束縛から解放されることが平安へとつながっていくと言えるでしょう。「呪い」は人を苦しめることはあっても、幸せにすることはありません。

   モアブの王バラクは、イスラエルを呪うためにバラム(占い師?まじない師?)を呼び寄せます。23章からバラムの三つの託宣が掲載されていますが、いずれもイスラエルを賛美し、祝福するものです。「神が呪いをかけぬものに、どうしてわたしが呪いをかけられよう」「見よ、祝福の命令をわたしは受けた。神の祝福されたものを、わたしが取り消すことができない」とのバラムの言葉の背後には、「この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」という神の声があります。バラムはその声に従い、呪いではなく祝福したのです。

   神の民と呼ばれるイスラエルや霊的イスラエルと呼ばれるキリスト者は神に祝福されたものと言えるかもしれません。しかし、それだけでしょうか。神が人(アダム)を創造されたとき「神は彼らを祝福された」ことを聖書は語っています。人が罪を犯してしまったときにも人に対する「呪い」の言葉は語られていません。「神にかたどって創造された」すべての人が、神の祝福の中に置かれているのです。

   最近、国内外で排外的な発言が目立ちます。私たちが今日の箇所から学ぶべきことは、神に創られたすべての人が「祝福されたもの」であり、その人たちを呪ったり排斥したりすることは、神がよしとされることではないということではないでしょうか。 (牧師 末松隆夫)

 
 応答讃美歌:新生301番「いかなる恵みぞ」    


(2025年7月20日の週報より)     

神にひれ伏すことの意味-神の招きに応える者へ-

出エジプト記4章27~31節

「礼拝とは何か」と礼拝の本質について考える時、重要な要素がいくつか見えてきます。その中の一つに、「神にひれ伏すこと」があります。

   出エジプト記4章において、「神にひれ伏すこと」は神への感謝と服従を意味しています。「主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になった」(31節)という主なる神の行動が先にあり、人々はひれ伏します。そこには、まず自分たちに目を注いでくださった神への感謝があります。その上で、「ひれ伏す」という人々の行動は、当時の支配者であったエジプトのファラオに「ひれ伏さないこと」を意味しました。それは、人々が主なる神への服従を選択し、ファラオへの服従を拒否したことを意味したのです。

   「神に従う」という選択は、「神以外のものの支配を拒否する自由」と繋がっています。私たちは、様々な言葉や考えと出会います。それらの中には、私たちを理不尽に傷つけるものや、脅しかけて無理やりに支配しようとするものもあります。「神に従う」という選択をしたとき、これらの言葉を絶対的な「神の言葉」としてではなく、自らと同じ「人間の言葉」として聞くことができるようになります。そこでこそ、私たちは理不尽な支配から解放され、かえって周囲の言葉と誠実に向き合うことができ、神が創造されたままの等身大の人間として生きることができるようになるのです。

   礼拝は「神にひれ伏すこと」、それは「神以外のものの支配を拒否する自由」を取り戻し、「神に従って生きる者」の生き方へと私たちを導きます。それは、ある問いを持って、日々の事柄と向き合っていく生き方です。その問いとは「神は私たちに何を語りかけているだろうか」という問いです。日々の生活の中で、その問いに自分なりの仕方で応えようとするときに、神から与えられる自由の喜びを知ることになるのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生464番「主が来られて呼んでおられる」     


(2025年7月13日の週報より)    

恵みが見えなくなった時

民数記11章1~15節

民数記は、イスラエルの民が「荒れ野」にいたときの民やモーセの様子(信仰)が記されている書巻です。それは、約束の地を目指して神と共に歩む私たち(教会)の姿を表すものでもあります。

   先週の個所(9章)では「主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った」民の姿(まさに信仰者の理想の姿)が描かれていました。ところが、聖書を1頁めくっただけの今日の箇所(11章)には、民の激しい不満と、そのために苦悩しているモーセの姿が描かれています。

   荒れ野で食べ物に窮する民の状況は理解できますが、問題は「どこを見回してもマナばかりで何もない」という発言内容です。「マナ」は神から与えられた特別な食べ物です。どこを見回してもマナがあるという〈神の支え〉〈神の恵み〉の中に彼らは置かれていたにもかかわらず、それを感謝することなく、不満を垂れているのです。神の恵みが見えなくなった時、喜び、感謝、平安は失われます。

   13節や20節のモーセのネガティブ発言をみると、この時のモーセもまたマナを通して示されている神の恵みが見えなくなってしまっていたのかもしれません。目の前にある問題に心奪われ、神の恵みが見えなくなってしまってネガティブ思考に陥いる、それが私たち人間の現実の姿だと言えるでしょう。

   「今」の〈私〉に与えられている神の恵みは何でしょうか?冷静に自分自身に問うとき、たくさんの恵みの中に私たちは置かれているのではないでしょうか。

   信仰を持つ前の生活(エジプト)が、自分の中で美化され、すてきなものであったかのように錯覚して、「今」を不満に思う弱さを私たちは持っています。そのような弱さだらけの私たちを徹頭徹尾愛し抜かれたお方がおられるという事実、その恵みに心を向けるときに、私たちの中に新しいエネルギーが与えられ、ネガティブな考え方からポジティブな生き方へと変えられ、不満ではなく感謝が、口からあふれてくるようになるのではないでしょうか。 (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生552番「わたしが悩むときも」     


(2025年7月6日の週報より)      

時に旅立ち、時にとどまり~主と共に歩む私たち~

民数記9章15節~23節

ケンブリッジ大学のバーバラ・サハキアン教授の研究によると、「人は一日に2万~3.5万回もの意思決定をしている」とのことです。すごい数です。皆さんにとって一番大きな意思決定(決断)は何でしょうか。バプテスマを受ける決心などはとても大きな意思決定です。信仰に関することだけでなく、日常生活の様々なことで、毎日、数え切れないほどの決断をしているのは確かなことです。その選び取りが自分の感情という不安定なものでなく、しっかりとした拠り所があれば安心です。神の民が行動の指針にしていたものは何だったのでしょうか。

   荒野を旅していた民は「天幕」(テント)暮らしでした。その中心には「幕屋」(十戒が入った契約の箱がある天幕)がありました。移動の度にそれらを解体し、荷造りし、次の場所で再び組み上げるという作業は楽ではなかったと思われます。しかし、短いときには二日で旅立ったというのですから驚きです。そして、その決断の根拠となっているのが「雲」だというのです。

  聖書が語る「雲」は〈神の臨在のしるし〉であり〈神が民と共におられる象徴〉です。その「雲」の移動を「主の命令」と聖書は表現しています。「主の命令」によって旅立ち、「主の命令」によって宿営する民の姿は、信仰をもって生きる私たちの生活を象徴的に表していると言えるでしょう。

  信仰をもって生きるとは、主が留まれと言われるところにしっかり留まって生きることです。そこでなすべきことをしっかりと責任を持って背負うということです。しかし同時に、「主の命令」によって旅立つことでもあります。新たな一歩を踏み出すのです。そしてその判断基準は、自分たちの思いではなく、「主の命令」であることを聖書は語ります。

  「主の命令」によって行動することは容易ではありません。応えることができない時が多いかもしれません。しかしそれでも、「主の命令」に生きていこうとする思い・姿勢だけは失わないで歩んでいきたいものです。 (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生483番「主と共に歩む」      


(2025年6月29日の週報より)     

神の愛が私たちの心に注がれている

ローマの信徒への手紙5章1~11節

「最後まで諦めない。」素敵な言葉です。何事においても、最後まで諦めないことは、本当に大切なことです。でも、本当に最後まで諦めない方は神さまではないでしょうか。ヘブライ人への手紙の冒頭には、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」とあります。神さまは、罪に墜ちた人間のために、諦めることなく、救いに至る道を備えて下さったのです。そのためにご自身の御子を私たちに与え、御子の十字架上の死という身を切るような思いをしてまで私たちの罪を贖い、救いをもたらしてくださったのです。神さまは本当に、最後まで私たちに寄り添い、私たちを救うことを諦めない愛の方なのです。その私たちの実態は、「正しいものはいない。一人もいない」状態なのです。そのような私たちに対して、神さまは、信仰によって救われる道を備えて下さったのです。

   パウロは、主イエス・キリストが、私たちが神さまとの間に平和を、その栄光に預かるための希望を得るためにいかに大きな働きをしてくださったかを雄弁に語ります。私たちは、その恵みの大きさを知れば知るほど、苦しみや絶望したくなるような状況でさえ、喜びへと、誇りへと変えられていく、とさえ言えるのです。苦難を喜ぶことができるのは、私たちがキリストにあって造りかえられた存在となったことの証明なのです。

   最後まで諦めることをなさらない神さまは、最後に御子を私たちの許へ送り出し、あまつさえ十字架に架けて私たちの罪を滅ぼし、信仰によって神に連なって神との平和の中に生きるものへと変えてくださったのです。「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれて」いることを覚えましょう。神さまは、究極の、最後の手段とでも言うべき方法を用いてまで、最後まで諦めずに私たちに向かい、責任を取ってくださる方なのです。 (神学生 伊藤健一)

 
応答讃美歌:新生495番「主よ み手もて」     


(2025年6月22日の週報より)     

パウロの礼拝-神の前に生きること-

ローマの信徒への手紙12章1節

今年度は「礼拝」を教会のテーマに据えています。そのことに則って、今日はローマ書12章から「礼拝とは生活の基盤である」ことに着目します。

   11章まで「教理」を語ってきたパウロですが、12章から「倫理=どのように生きるか」を語り始めます。その12章の最初に言及されているのが「礼拝」です。礼拝が生き方の問題の最初に置かれるものであることを、パウロは示します。

   「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(1節)、と語られます。ここで注意したいことは、「生けるいけにえ」という言葉です。通常、いけにえは「死にゆくもの」です。しかしパウロは「生きるものであれ」と呼びかけるのです。その呼びかけは、「死」ではなく「生」を望まれる「神の憐れみ」(1節)に基づいています。

   「礼拝」とは「生」を望まれた者として神の前に立つこと、それは「神の思いが向けられている自分」を取り戻す時であると言えるかもしれません。生きていく中で、私たちは様々な言葉と出会います。その中には、自らの存在が否定されたと感じるものもあるでしょう。例えば「役に立たない」という言葉に苦しめられ、「自分が生きていることは迷惑なのではないか」と考える人は少なくありません。そのような言葉が自分の基盤になってしまうとき、そこから生じる「生き方」は自虐的になり、最悪の場合は「死にゆくもの」になってしまうかもしれません。しかしそれは、「神の思い」ではないのです。

   「礼拝を生活の基盤に据える」とは、「あなたに生を望む神」と共に生活を始めることです。「神の思いが向けられている自分」を取り戻し、その思いに応える者として生きようと心に留めること、そこから始まって行く生活は、「死」ではなく、いつも「生」へと方向づけられたものなのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生626番「主はいのちを与えませり」    


(2025年6月15日の週報より)    

はじまりのしるし

ローマの信徒への手紙6章1~4節

バプテスマは、信仰者としての人生の「はじまり」を象徴します。それまでの日々も決して無下にはされませんが、それでも「信仰者」としての歩みはバプテスマから始まります。バプテスマは「一緒に生きよう」と招く神に応える行為です。信仰者として歩みは、神の招きに応えるところから始まるのです。

  パウロは、キリストの死と復活に重なるものとしてバプテスマを語ります。人はバプテスマによって「キリストと共に葬られ、その死にあずかるもの」(6:4)となり、さらに「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるため」(6:4)だといいます。そして「あなたがたも自分は罪に対しては死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(6:11)と結びます。

  バプテスマ後にも、「罪」としか思えないようなものを抱えることはあります。それはパウロも直面してきた事柄でした。例えば放縦な生活をしていたコリント教会や、律法主義に戻ろうとしていたガラテヤ教会の姿があり、またパウロ自身も「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」(7:18)と自らの弱さを語っています。バプテスマによって罪のない善人になれるとは、パウロも考えませんでした。しかしそれでも決定的に大切なことは、信仰者としての人生が“始まる”ということです。

  「はじまり」は未来を拓きます。今はまだ完璧ではなく、様々な弱さを抱え持つ者であるけれども、いつの日か本当の意味で解放される時がきます。その未来の希望をキリストの復活は示します。その未来へ向かう歩みが始まるのです。「その未来に向かって一緒に歩いていこう」と招く神に応える人生、そして「そのように招いてくださる神がいる」と信仰を表明する人生が、ここから始まるのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生491番「信ぜよ み神を」   


  (2025年6月8日の週報より)    

自分を無にするイエス-自分を捨てられない私

フィリピの信徒への手紙2章6節~12節

今日は「ペンテコステ(ギリシア語で50の意味)」と呼ばれる日です。イエスの復活から50日目にイエスの弟子たちに聖霊が降り、福音が世界に向かって大胆に語られ始めます。「キリスト教会誕生の日」として覚えられる特別な日です。「聖霊」という言葉には「助けるもの」という意味も込められています。自分たちのために閉じこもるのではなく、世界のために福音を語ろうとする弟子たちを「助けるもの」があったと、ペンテコステの出来事は物語ります。この「助けるもの」の存在に大きな励ましを見ます。

   フィリピ2章は、「キリストに倣って生きるように」と奨励する箇所です。模範として描かれるイエスの姿は「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ」たというものでした(6~7節)。徹底的に「自分のため」という部分を捨て去って、神と人のために尽くされた姿が見えてきます。その姿に倣って生きようとパウロは語りますが、「自分を無にするイエス」に倣うことは簡単ではありません。どうしても、どこかに「自分のため」という思いが残ってしまうからです。もし「イエスと同じように自分を無にできないならば救われない」という話ならば、それは無理難題に思えてしまいます。

   一方でパウロは、「恐れおののきつつ、自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)とも語っています。私はここに励ましを見るのです。〔人間は、究極的には「自分の救い」は捨てられない〕と、パウロは分かっているのだと思います。そのような不完全な者でありながら、それでもなお、キリストに倣って神と人のために生きてみよう、とパウロは励ましているのではないでしょうか。そしてそのような歩みの中に「自分の救いにつながる神の助け」もあるのだと、聖書は伝えているのではないでしょうか。            (牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生621番「われに従えとイエスは招く」   


  (2025年6月1日の週報より)   

苦しみさえ益になる‐信仰者が見出す神の不思議‐

フィリピの信徒への手紙1章12~14節

フィリピの信徒への手紙は、パウロが牢獄に囚われている時に書かれた手紙だと言われます。それは、パウロにとっても苦しい日々であったと思われます。しかしパウロは、このことが「福音の前進に役立った」(12節)と喜びます。パウロにとって、「福音の前進」は命を懸けるほどの価値があるものでした。このパウロの熱心さに目を引かれますが、それ以上に注目したいのは、パウロをここまで動かすほどの「イエス・キリストの福音」とは一体何か、という点です。

   かつてのパウロはキリスト教徒を迫害する者でした。この頃のパウロは、「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」いたと言われます(使徒9章1節)。このような人物が、イエス・キリストとの出会いによって「福音の前進」に命を懸けるように変えられます。パウロにとって、イエス・キリストは自らの人生を変えた存在であり、さらに言えば、〔迫害をするような悪いものを良いものへと変えていく存在〕であったのだと思います。

   パウロは多くの手紙の中で、「キリストに結ばれること」の幸いを繰り返し語ります。それは、キリストに結ばれて生きたパウロの実体験に基づいた言葉でした。キリストに結ばれて生きるとき、自分の人生を変えたキリストの御業があらゆるところで働き、自分にとっては嫌になるような出来事さえ良い事柄へと変えられていく様子を、パウロは見てきたのです。フィリピ1章12節の「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」という言葉にも、自らの苦しみが益に変えられるのを目の当たりにしたパウロの感動が込められているのではないでしょうか。キリストに結ばれて生きるとき、今日の苦しみも、いつの日か「ちゃんと意味があった」と言えるものに変わる、そのような希望をパウロは告げ知らせるのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生73番「善き力にわれ囲まれ」    


  (2025年5月25日の週報より)    

愛によって仕える者へ

ガラテヤの信徒への手紙5章2~15節

パウロは1節で「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」と語り、13節でも同じようなことを述べています。神は私たちを罪からの解放だけでなく、律法の縛りからも解放してくださいました。パウロが再三語っているように、神の愛(主イエスの十字架による贖い)を信じる信仰によって義とされたからです。だからこそ、束縛の世界に逆戻りしないように忠告し、その一つとして「割礼」(律法)の問題を提示しています。

   アブラハムとの契約のしるしとしての「割礼」をユダヤ人は大切に守ってきました。それ自体が悪いことだとはパウロは言っていません。「割礼」を救いの条件として異邦人に強制することを問題にしているのです。「割礼」を異邦人に強制するということは、異邦人に対して[ユダヤ人になれ]と言っているようなものです。ユダヤ人化するという「同化政策」とも言えるでしょう。そこには相手の人権、意思、自由はなく、相手を支配することになります。ある聖書学者は彼らを「律法原理主義者」と呼んでいます。自分の考えを絶対化し、それを他者におしつける愚かさを私たちは知る必要があります。パウロは、「割礼」を救いの条件として強制することの問題性を繰り返し指摘します。

   この事柄を私たちに当てはめるとき、「バプテスマ(洗礼)」の問題と通じるものがあります。「バプテスマ」を救いに与るための条件(バプテスマを受けることで救われる)ととらえる人もいますが、聖書はそうは言っていません。「バプテスマ」は、聖霊の働きによってキリスト告白(信仰)へと導かれた人が、その信仰を目に見える形で神と人々の前で証しするものです。信仰が先立つのです。

   しかし、信じてさえいればそれでいいということではありません。愛されている者としての応答の生活(神への愛、隣人への愛)が伴ってこそ意味のあるものとなります。「愛によって互いに仕える」ことが、神が私たちに望んでおられる教会生活であることを踏まえて、共に仕えて行きましょう。 (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生651番「イエスの愛にこたえ行く」   


 (2025年5月18日の週報より)    

主イエスと共に、もう一歩、前へ

出エジプト記35章4~9節

「教会の歴史」は「礼拝の日々」と言っても過言ではありません。良い時代も悪い時代も、教会は礼拝を続けてきました。その日々の積み重ねが、教会の歴史を形づくってきました。この2025年も、世界的に様々な変化が起こっていて、不安定な状況になっています。この時代の中で、なお未来を望んで歩みを進めるために、「礼拝」について、今一度じっくり考えていきたいと思います。

   出エジプト記35章は「献げ物」について語ります。献げ物をするという行為は「礼拝」の重要な要素の一つです。聖書において、献げ物は〔神を動かすためにするもの〕ではありません。聖書の神は私たちよりも先に動いてくださる方です。出エジプト記においても、エジプトで苦しんでいる人々を救い出すために、神は動いてくださいました。自分たちのために動いてくださった神を思う時、人々は「心動かされ」(35:21)、自ら進んで献げ物をしました。献げ物は、私たちのために動いてくださった神への「感謝のしるし」です。ここに、聖書における礼拝の大切な事柄があります。

   「感謝する」ということは、「自分のために動いてくれた存在」を認識することでもあると思います。そのことの「有難さ」に触れるとき、私たちの心は感謝へと動かされるのではないでしょうか。そして、その「有難さ」を忘れてしまう時には、私たちの心はなにか良くない方向へと流されてしまうかもしれません。

   礼拝は、神への感謝のしるしです。それは、私たちのために動いてくださる神を想起することでもあります。神への感謝を表す人々は、「人間は何ものなのでしょう」(詩編8:5)と言いたくなるほど、自らが生きていることの有難さを感じています。この有難さが、私たちの命をまた一歩、未来へと押し出してくれるでしょう。 (牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生21番「栄光と賛美を」