| (2025年11月23日の週報より) |
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愛の補給所‐“生きて欲しい”を取り戻すために‐ イザヤ書6章1~7節 2025年度の活動方針のなかで、「変わらない礼拝の本質を心に留めて」という言葉を掲げています。「礼拝の本質」とは、「神さまに心を向けること」です。礼拝の形式的な部分は様々に変わっていきますが、「神さまに心を向ける」という本質は変わりません。神さまに心を向けるとき、私たちや世界のことに深く心を注いでくださっている神さまの姿が見えてきます。その神さまの姿から、私たちは生きる力を得て来たのです。 |
| 応答讃美歌:新生461「迷い悩みも」 |
| (2025年11月16日の週報より) |
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主による建て直し アモス書9章11~15節 先週は幼児祝福式でしたが、子育てには愛が必要です。愛することと甘やかすことは違います。100%受容する優しさとともに、時には厳しさも必要です。以前、テレビで少子化問題が報道されていました。その中で[きょうだい喧嘩によって子どもたちは駆け引きや手加減を無意識のうちに取得する]と語られていました。痛みを伴う関わりや交わりの中でいろんなことを学び、それが成長へとつながっていきます。それは、神との関係においても言えることです。 |
| 応答讃美歌:新生570「たとえばわたしが」 |
| (2025年11月9日の週報より) |
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将来と希望を与える神の計画 エレミヤ書29章10~14節 子どもたちが好きなテレビアニメに「それいけ!アンパンマン」があります。そのテーマソングで原作者のやなせたかしさんはこう書き出しています。 |
| 応答讃美歌:新生301「いかなる恵みぞ」 |
| (2025年11月2日の週報より) |
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イスラエルの罪。対岸の火事? アモス書2章6~16節 アモスは、南王国ユダで牧羊業に携わり果樹園も営んでいた人で、当時としては裕福な生活だったようです。そのアモスが北王国イスラエルに神の言葉(さばき)を伝える預言者となったのは、アモス自身の思いではなく、神の招き・神の迫りに対する応答によるものです。私たちが毎週ささげている礼拝も、神の恵みを受ける時であるとともに、神の招きと迫りを受ける時でもあります。神の迫りを受けて悔い改め、新たな決断をし、新たな一歩を踏み出す、それが礼拝です。 |
| 応答讃美歌:新生478「ともに在せ わが主よ」 |
| (2025年10月26日の週報より) |
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地べたで“ごろん”、明け渡そう ヨハネによる福音書15章5、16~17節 みなさん、はじめまして!巻頭言のスペースをお借りして自己紹介をさせてください。僕とキリスト教会との出会いは幼稚園です。我が家はクリスチャンファミリーではありません。母が家から一番近い幼稚園を探していて、たまたま見つけたのが久留米バプテスト教会の附設幼稚園、“めぐみのその幼稚園”でした。年中/年長のたった二年間でしたけど、楽しかった! |
| 応答讃美歌:新生510「主の言葉の」 |
| (2025年10月19日の週報より) |
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永遠の命とは ヨハネによる福音書3章16~21節 「永遠の命」とは何でしょうか。多くの人は「死んだ後も続く命」と考えるかもしれません。しかし聖書が語る「永遠の命」は、単なる寿命の延長ではなく、神とのつながりの中で生きる命を指しています。 |
| 応答讃美歌:新生437「歌いつつ歩まん」 |
| (2025年10月12日の週報より) |
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神さま、リプライ待ち。 ヨナ書4章1~4節 神は、ヨナをニネベに派遣します。一度は逃げ出したヨナでしたが、今度は逃げませんでした。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(3章4節)というヨナの言葉を聞いて、ニネベの人々は直ちに態度を改めます。その様子を見た神はニネベを滅ぼすのをやめますが、そのことでヨナは怒りを抑えられなくなります。そのヨナに、神は問いかけます。「お前は怒るが、それは正しいことか」(4章4節)と。 |
| 応答讃美歌:新生445「心静め語れ主と」 |
| (2025年10月5日の週報より) |
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神の勝利が命を救う ヨナ書1章1~3節 ヨナ書は、「預言者が神から逃げ出す」という独特な場面を描きます。これは、単なる憶病や怠慢ではなく、ヨナの正義を懸けた神との戦いでした。預言者は、「神の言葉を人々に告げる」という大切な役割を担っていました。ヨナは、紀元前8世紀頃、南北に分かれたイスラエル王国の北側で活動した預言者でした。その頃、アッシリアという国が勢力を伸ばし始めていました。アッシリアは暴力的な征服をすることで有名な国でした。神がヨナを遣わそうとした「ニネベ」は、このアッシリアの首都だったのです。 |
| 応答讃美歌:新生550「ひとたびは死にし身も」 |
| (2025年9月28日の週報より) |
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人生における究極の選択 ヨシュア記24章1~15節 ヨシュア記の23章と24章には、ヨシュアの告別の言葉(遺言)が記されています。ヨシュアは民に最後の言葉を語る際、民の代表を呼び寄せました。これはヨシュアが長老たちと一緒に(共に)神の御前に立ったことを意味しています。私たちは、求道者の救いや教会員の成長を願います。しかしともすると、そこに自分は入っていなく、人々が神の御前に立つことばかりに心が向いてしまうことがあります。そうではなく、すべての人が共に主の御前に進み出ることが信仰共同体としての教会のあるべき姿であることを、今一度心に留めましょう。 ヨシュアは、神の言葉を受け、アブラハムのことから約束の地に至ったことまでを振り返り、それは人間の力によってなしえたものではなく、今あるは神の恵みであることを語ります。繰り返し語られている「わたし」と言われているお方に心を向け、その恵みの中に生かされて「今」があることを心に刻むとき、私たちの生きる方向、選び取る道が見えてきます。 ヨシュアは、先祖から今に至るまで民が遭遇してきた様々な神々を示しながら、「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」と語ります。この「選び」は、その人の人生をかけての大きな選びであり、人生における究極の選択です。その「選び」は、それぞれがなすべきものです。信仰は神の愛に対する「私」の自発的な応答です。まさに、自覚的信仰が求められているのです。 自分に仕えてくれるものを選ぶのは難しいことではありません。しかし、自分が仕えるものを選ぶとなると、そこには大きな決断が必要となります。私たちはだれに仕えようとしているのでしょうか。人間がつくり出した神々でしょうか。人間をつくったお方でしょうか。それとも自分自身でしょうか。 ヨシュアは民に断言します。「わたしとわたしの家は主に仕えます」と。このヨシュアの告白を、私たちも「今日」という毎日の生活で告白していく一人ひとりであり、教会でありたいと節に願います。 (牧師 末松隆夫) |
| 応答讃美歌:新生621「われに従えとイエスは招く) |